一対一の演奏会

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こんばんは、myrrhです。

証を書いたり、他の方々の証を読んだりする中で、これまでの私がどう生きてきたのか、落ち着いて考える時間を沢山頂きました。

その中でも、私の「演奏のあり方」について神様が悟らせて下さったことについて、今回は書きたいと思います。


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信仰の4本の柱の一つに、「賛美」があります。

賛美の時は賛美歌を歌ったり、感謝の祈りを捧げたりします。

けど、私自身が折角ピアノをやっているのだから、自分がピアノを人前で演奏する時は神様に捧げられるものにしたい、と思いました。

そのように考えて、これまで多くの演奏の場を踏んできました。

そうすれば自ずと、演奏も上手くいくだろうと考えていたからです。


しかし、現実はそう上手くいきませんでした。

緊張してしまったり、小さな失敗から来る精神又は肉体のバランスの崩壊から、弾いている時も辛いばかりか、弾き終わった後も「自分はだめだな」と思わざるを得ないことが多くありました。

後から自分の演奏を聴き直した時に、「なんてつまらない演奏なんだろう」と愕然としたこともあります。

こんな演奏じゃ全く上手くいっていないし、そもそも神様はおろか、人にすらまともに喜ばれるものになっていない。

その原因が何かと探った時に、その時々に色々なこと要因はあれど、結局努力不足だな、という結論で終わらせていました。

それ以上に考えられないし、またそのこと以外を考えたくない、という気持ちがあったのだと思います。

実際に、それも大きな問題の一つでした。

しかし、演奏自体は上手くいったけど、その後神様を抜きにして自分の気持ちだけが盛り上がってしまい、その日のお祈りが全然入らない、といったことも結構ありました。

 

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今まで私が演奏をする時、また練習をする時、大きな目標の一つとしてきたことは「人にどう伝えるか」ということでした。

伝えるものがなければ、音楽はただの音に成り下がってしまいます。

どれだけ楽曲が優れていても、やっぱり人の心を動かす力を持てません。


しかし、そうして作ってきた演奏を発表する時に、私が舞台上で考えていたことは結局、「人がどう私の演奏を受け取ってくれているか」でした。

その為に神様に祈って、「どうか守って下さい」「成功できますように」と縋っていました。

最初に、演奏を賛美=神様に対する感謝を捧げる為にしたいと、思っていたにも関わらずです。

いつの間にか演奏を捧げる対象が人になっていて、人にどう思われるかが一番の焦点になっていました。

その為に、神様に縋っていた自分に気が付きました。

つまらない演奏になる筈ですし、弾いている時に辛いと思う筈です。


聖書でも以下の聖句がありました。

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自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。


だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。


あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。


それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。


また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。


よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。


あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。


すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。


(マタイによる福音書6章1~6節)

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この聖句を知っていながら、私は自分がやっていたことの偽善が分かっていませんでした。

私が今もなお音楽がやれること自体、神様が与えて下さらなければできないことです。

その神様が与えて下さったものを、演奏者としての成功の為に使っていました。

本当に間違っていました。


もし、演奏する場所がどんなに小さなところでも、聴いてくれる人がどんなに少なくても、審査員だけだとしても、誰もいなくても、神様の為だけに演奏するなら全く関係ありません。

ただ神様に向かって、神様に伝えたいと思って演奏するなら、その場所がどんなホールよりも大きく素晴らしい舞台になるのだと。


このようなことを悟って臨んだ演奏会で、私は今までにない深さの「音楽への集中」を感じて弾くことが出来ました。

神様に祈るように弾くから、音楽にもより集中するしかありませんでした。

だからこそ、終わった後も力に満たされました。

また、その時は年配のお客さんが多かったのですが、心なしか始まった時よりも生き生きとして帰られていったことが印象に残りました。


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信仰を持つ前も一生懸命にピアノを弾いていましたが、今の方が本当に幸せに音楽が出来ていると実感しています。

「ピアノを弾く時は誰かの為に弾きなさい」

そう小さい時に教わって育った私は、ある時「誰か」の対象を見失って、音楽をやる意義が分からなくなりました。

その対象を「私の演奏を聴いてくれる不特定多数」に変化させてやり続けていましたが、今は「神様」の為に弾くという最も幸せな答えをはっきり与えられました。

これから、本当に神様に喜んで頂ける演奏が出来るように、本当にずっと神様の為だけに弾き続けることができるように、そして神様に使って頂ける演奏者となれるように、もっともっと実力も能力も身につけていきたいです。

 

そのように生きれること。

信仰を持つ前と今とのちょっとした、けれど、本当に大きく幸せな変化だな、と思います。

 

 

最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。

皆様に神様の恵みが満ち溢れますようにお祈りします。