「分からない」を認める大切さ
こんにちは、myrrhです。
今日は「分からない」ことを認めることが、自分にとってどれほど大切なことだったのかを書こうと思います。
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私は幼い頃から、よく知ったふりをすることの多い人間でした。
みんなが見ていたドラマや漫画、最近流行りのアーティスト、芸能人、俳優などに殆ど興味が無く、学校の友達との会話についていけないことが多々ありました。なので、会話を振られた時に何といえば良いか分からず、とりあえず分からなくても何となく知っているように装っておこう、と考えて振舞ってきました。
知らないこと、分からないことは恥ずかしいことだと思っていました。そして、恥ずかしいことは隠さないといけない、とも思っていたと思います。
その体質は次第に自分自身に身についていき、勉強をする中、またピアノの練習、またレッスンを受けたりする中でも大きく響くことになりました。
勉強は一生懸命やろうとしていましたが、きちんと理解のできていない数学の公式や英語単語、社会や理科の用語等々、それらはテストが終了したらすぐに頭から飛んでいきました。
感覚で解いてきたような問題は、暫く経った後にもう一度やろうとしたら全く出来なくなっていました。
ピアノも、レッスンで習ったことがなかなか理解できない時、とにかく無理やり自分の体にその奏法や技法を覚えさることに集中することで、自分自身の表現ではないものを演奏したりするようになりました。
そして、分かっていないことが原因で失敗すると、自分の努力が足りないのだと思って、余計に意地になって上っ面の知識で無駄な方向に突き進むことが非常に多かったです。
その時の私は、本当に効果があるのかどうかも分からない辛い努力をするよりも、自分が何も分かっていないことに気付くこと、また分からないものを分かるようにしようとする努力の方が苦しくて大変に思えていたのだと思います。
つまり、「分からない自分」を認めたくないプライドが、私の成長を邪魔していました。
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御言葉を読んで、分からないことは悪いことでないと分かりました。
何故なら、一つの記事を読んだだけでも物の見方・考え方に大きな変化が現れるのに、そのような記事をraptさんは次々と更新し、その度に新たな発見や悟りを下さるからです。
何も自分は知らないと、むしろ知っていると思うことは高慢であると、分かるようになりました。
高慢もプライドも、大きな罪です。
RAPT有料記事212(2017年10月2日)祈りが叶えられる時とは、どのような時なのか。
人間の欲求の中には「知識欲」がありますが、「分からない」ことは「知りたい」との欲求に繋がります。
そして人間の欲求の一つである以上、食欲と同じように満たさないと人間は人間として生きていけません。
例えばこの世の中のカラクリを、rapt理論を知らずに生きていた時のように、分からないことに囲まれて生きることは辛いことです。
逆に、分からないことが分かった時の「知る喜び」は計り知れません。
しかし、高慢やプライドは自分に分からないことがあることを有耶無耶にし、「知らなくてもいい」という気持ちにさせてしまいます。
知らなくても幸せに生きていける、と錯覚してしまいます。
つまり、高慢・プライドは、本来人間が持つ欲求を阻害するものではないかと悟りました。
カルト宗教は辛いことや意味が分からないことがある度に「考えるな」と教えているそうですが、それがどれほど恐ろしいことでしょうか。
神様はありとあらゆる真実・真理を御言葉を通じて教えてくださり、何か分からないことがあれば、必ず何らか形を使って教えてくださいます。
明け方の祈りの中で祈り求めていたことに対して、その日の朝会の御言葉の中で答えを与えて下さったことも、最早数え切れないほどあります。
分からないと心から認めることは、神様の前で本当に謙虚になれることなのだ、と気付きました。
そうしてこそ、初めて神様は本当に「分かった!」(=悟った)という感覚と共に答えを与えて下さり、私のことを助けて下さるということも、沢山経験しました。
今でも、気がついたら盲目的に自分の考えに頼って、道を間違えてしまうことが多くあります。
必ずその度に悔い改め、まっすぐに主の導いて下さる命の道を進めるように、これからも努力したいと思います。
最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。
また次回もお会い出来ることを楽しみにしています。