思い込みを捨てる事
こんばんは、myrrhです。
神様は御言葉で、一人一人が個性才能を使って天の文化・芸術を成しなさいと仰って下さいました。
今日は、信仰を持つ前からやっていたピアノと、信仰を持ってからやり始めたカメラを行う中で分かったことを書こうと思います。
————————
以前書かせて頂いた通り、元々私はピアノをやっていました。
それが自分の個性才能の一つだ、と思ってその道でもがいていましたが、あくまでそれは信仰を持つ前からやっていたことです。
折角なら新しいこともやりたい!と思って、別の個性才能も発掘しようと決意しました。
しばらくの間、何をしたらいいかな…と迷っている時期がありました。
しかし、その間でさえ、無意識のうちに好きでやっていたことがあった事に気がつきました。
写真を撮ることです。
丁度私の周りには一眼レフを持っていた友達が何人かいました。
スマホで写真を撮るのとは格段に仕上がりが違うし、出来ることも非常に幅広い。
何より、カメラを構える姿にちょっとした憧れがあって、いつか自分も一眼レフを欲しいなぁ…と思っていました。
その為も今はスマホで練習をしよう…と、思いついては写真を撮っていたのです。
これだ!と思いました。
そして、事あるごとに近くの公園に出かけて木やら花やらを撮ってみたり、演奏会を聴きに行った時は出来るだけ率先して写真を撮る係を引き受けたりしてみました。
カフェのランチや、何処かに遊びに出かけた時にも、どんな写真が撮れるかわくわくしながらスマホを振り回していました。
何気なしにやっていた時よりも、上手くなりたいと意識をしながら撮ることは楽しく、少しずつ良い写真だと思えるものが撮れるようになることを幸せに思いました。
そして、今年の8月の後半頃、遂に一眼レフを買うことが出来ました。
安く買えるように、中古でも良いものを神様が与えて下さいました。
早速私は、そのカメラを使って思いついたものは次々と撮るようになりました。
————————
スマホカメラと違い、一眼レフを使うにはある程度勉強と慣れが必要でした。
取り扱い説明書を読みつつ、とりあえず弄って手に馴染ませるところから入りました。
実際に撮る機会を増やして、ネットで自分の撮りたいイメージの写真を撮る方法を探してみたり、InstagramやTwitterで写真を載せている人達のギャラリーを見て研究したりしました。
またレタッチ(編集)が出来なければ、カメラだけで綺麗な写真を作るのには限界があることもすぐに分かってきました。
元々機械に関しては不慣れな私でしたが、「初めてやる」という緊張感からか不思議と集中が出来て、少しずつ飲み込みは早くなりました。
ところで、同じく個性才能としてやっていたピアノのことです。
ピアノは私の人生の大部分を占めていたので、世の中で生きていた時の考えが非常に色濃く付いていました。
なので、信仰生活の中で自分の考えを捨てて脳の次元を上げようとするにつれ、音の出し方から、練習の仕方、演奏をする時の感覚まで、どんどん見直すところが出てきました。
しかし、体に染み込ませてきたものを変えていくのは思ったよりも難しく、曲を仕上げることよりも、自分の演奏を作り変えていく作業の方が難航しました。
一度持っているものを崩して作り変えたつもりが、気が付いたらまた以前の癖や感覚が戻ってしまっていることもよくありました。
変われた!と思って油断してしまい、怠惰になってしまうことも沢山ありました。
それにいかに早く気付いて、認めて、練習するかが、非常に大きなポイントになっていました。
————————
信仰生活の中で別々の文化・芸術をやる中で、この世の中のありとあらゆる物事は根本で繋がっていることを実感するようになりました。
もし私がピアノだけをやっていたとしたら、私の古い考えを解消するのがより難しくなり、信仰生活ももっと頑ななものになっていたと思います。
また、カメラを徐々に習得しつつあるのは、ピアノをやることで身についた脳の思考回路が少しでも役に立っているのを感じます。
また、この二つの個性才能だけではなく、運動をしたり、料理をしたり、rapt理論を学ぶことだったり、文章を書くことだったり、バイトの中での所作だったり、一人の人間が行う様々なことが連鎖し合って成長していけることがわかりました。
そして、それら全てを強力に繋いでくれたのは、信仰生活の中で頂いた御言葉であり、聖書の教えであると実感しました。
寧ろ、その信仰の土台無しには私は何も出来なかったと思います。
信仰を持っていない時の私は、ちょっとだけピアノが弾ける(それも大して目立たない存在でした)だけで他に何の取り柄の無い人間でした。
世の中には、ピアノも出来る、他の楽器も、勉強も、スポーツも…と「天が二物を与えた」と称される天才がたくさんいて、私は彼らのことを羨望と嫉妬の眼差しで見ていただけでした。
でも、御言葉から真実と真理を学んでいくうちに、誰でもそうなることが可能なのかもしれない、と思えるようになりました。
頭の中に正しい知識が入っていれば入っているほど、正しく一つ一つの物事に当たっていくことができるからです。実際に、頭がすっきりとしている時ほど新しい発見があり、何が違っていたかが分かりやすくなります。
神様は、人間一人一人に他の誰にも出来ない個性と才能があると教えて下さいました。
そして、何か一つでも掴んでしまえば、別のことをする時に大きな力になるとも。
RAPT有料記事59 (2016年4月16日)
この世の誰もが「個性」の王様だ。
脳は、「分かったこと」の蓄積で成長できるし、その蓄積がある一定の量を超えると、出来ることが増えていくのだと分かりました。
何かを行うのは「私」という人間なので、御言葉や聖書で脳の中にあった間違った考え、自分の思い込みを取って、新しい知識と知恵を得ることで、それらをありとあらゆる物事を成す為に使えるのだ、と気付くことが出来ました。
RAPT有料記事414(2019年10月21日)
人は悟りを積み重ねることで神のようになっていくし、神のようになれば自らの行いで自分に恵みを与えることができるので、何か特別なことが起きなくても毎日が幸せだ。
考えが変われば行いが変わりますし、行いが良い方向に変われば、結果も必ず良くなります。
そして、その成長できるスピードは、いかに自分が握りしめていた「過去の考え方=思い込み」を早く捨てることが出来るかにかかっているのだ、と分かりました。
何の先入観も知識も無いままやったカメラは、自分が「分からない」ことが前提なので、直ぐに次への改善点を見つけて、一回一回を切り替えて行うことができました。
しかし、ピアノは「今までやってきた」ことの思い込みが染み付いてしまっているので、成長していくことに対して壁に当たりやすいと感じましたし、気付けば自分の考えに陥りやすい傾向にありました。
思い込みを捨ててこそ、間違いに気付けるし、新しいことも吸収できました。
そうやって個性才能を伸ばすことで、より一層神様に「もっと出来るようにならせてください」と強く祈らなければいけないと悟れました。
信仰生活も日常生活も、相互関係であり、循環関係にあり、どちらの成長にも自分の考え・思い込みはその妨げになりました。
自分の中には、まだまだ過去の考え・思い込みがあると実感しています。これからもそれらを徹底的に取り除けるように、努力していきたいと思います。
————————
様々な物事にぶつかり、その度に悔い改めを行う中で、今までの自分が考えていなかった形で、自分が本当にやりたかった事が進み始めました。
またその中で、自分が遅く、努力の足りない者である事がどんどんと明らかになりました。
神様に与えて頂いた希望を必ず形にする為に、これからももがいていきます。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。
また次回にお会い出来ますことを楽しみにしています。