祝祭の歌
(2019.11.11)
こんばんは、myrrhです。
11月11日。
神様とraptさんが愛を成してくださったこと、また私たちと聖三位が出会って愛を成したことを記念する日として、神様が定めて下さった祝祭の日です。
RAPT | RAPT有料記事221(2017年11月4日)主に出会って救われたことを愛と感謝でお祝いしなさい。〈11月11日の主の祝祭についての御言葉〉
RAPT | RAPT有料記事326(2018年11月10日)主が示される真の成功哲学。または、11月11日の主の祝祭についての御言葉。
一年目の11月11日、母親にキッシュを作って欲しいと頼んだら、その後に母親がraptブログを読み始めて伝道されました。
二年目の11月11日は山に行き、それまで自分が歩けなかったような距離を元気に歩くことができました。
祝祭の日はいつも不思議な恵みと悟りに満たされます。
今年の11月11日は前日に体調を崩してしまったのですが、今までよりも更に思い出深い、これまでの信仰生活の中で最高に恵みと愛を感じた一日を過ごしました。
一番印象深かったことは…と決めることは難しいほど色々なことがあったのですが、今回はこの日に合わせて準備を進めていた自作曲を弾いた話について、書かせて頂きたいと思います。
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今年の春頃から、11月11日には何か特別な演奏をしたいな、と思っていました。
特別な演奏といえば、やっぱりお客さんにも聴いてもらう演奏会。祈っていく内に、11月11日に演奏会を出来たらな…と強く思うようになりました。
そのうちに、演奏の機会をたまたま貰ったので、日程をこの日に合わせようとしていたのですがそれは結局叶わず。
では、代わりに自作曲を作ってこの日に神様に捧げたい、と考えるようになりました。
実は、小さい頃はピアノ演奏よりも作曲の方が好きでした。お遊びに毛が生えた程度でしたが、小学校の頃通っていた音楽教室で進路を聞かれた時に「作曲がやりたいです」と答えた覚えがあります。しかし、何故かそれ以降作曲をすることはありませんでした。
大学でも一年間作曲の授業はありましたが、興味が冷めてしまっていたのかあまり真面目にやっていませんでした。
しかし、神様が小さい頃の願いをもう一度復活させて下さったのか、自作の賛美歌を作りたい、という構想がいつしか湧いていました。
なので、何か思いつく度に作曲を試みていたのですが、当然ながら作りたいと思ってすぐに出来るものではありませんでした。
大概あまりの駄作、凡作、どこかで聞いたような作風に、「こんなのだめだ」と完成する前に捨ててしまうものばかり。
何故自分は完成出来ないのかなと考えた時に、自分より才能がある人に頼っている心があることに気付きました。
すごい才能を持っている人が賛美歌を作っていました。
その人の賛美歌を、私は信仰を持ち始めた時から歌っていました。
特に信仰を持って一年目は、歌う度に毎日すごい曲だなと思っていました。
その思いを罪と共に上塗りしていたからか、自分が作ったところで兄弟姉妹達に恵みを与えられるものなんて出来ない、との考えがいつの間にか心の奥底に渦巻いていたのです。
それが私の怠惰と相まって、限界にぶつかっていました。
でも今年の9月、その人が悪しきカルト宗教「全能神教会」の信者であり、raptさんの教会に侵入した工作員の一人だったことがはっきりと明らかになりました。
全能神教会のことは以下の記事で紹介されていますので、是非ご覧下さい。
【北朝鮮拉致問題は嘘だった!!】横田早紀江と拉致被害者家族のドス黒い闇。 | Kawataのブログ
いつ頃からか彼女のことをどこか変だな、おかしいな、と思っていたものの、実際に決定的な証拠をTwitterで見て、怒りで震えました。
でもその件の後、それまで私は本気で曲を作ろうと思っていなかったことをじわじわ悟るようになりました。
「天の文化・芸術」をやりたいとずっと、ずっと祈ってきたのに、私は本気で神様への気持ちを曲にしたい、兄弟姉妹達に恵みを分かち合えるものを作ろうという気がなかったのだと………
絶対にやろうと決心しなければ、本当に何事も出来ません。
しばらく経ったある時、祈りの中でメロディが聞こえてきました。
祈りの中でメロディを思いつくことは、以前にもありました。でも、大概作り続ける内に訳が分からなくなることが大半でした。
この時に書き留めたメロディは色々と経緯を辿って、曲として形になりました。
そして、当初考えていた「賛美歌」ではなく、それはピアノソロの曲になりました。
途中、自分の無能さに打ちひしがれてやめたくなったり、自分のやりたい方向に曲を持って行こうとして何度も行き詰まりました。
でも、11月11日の明け方に「神様が下さったメロディに、余計な自分のアレンジを加えるのをやめよう」と思った時に、ようやくしっくりくる完成形が見えました。
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11月11日の朝、不思議なほど明るく日の光が入ったお気に入りの練習室でその曲を練習し、夕方にもう一度同じ部屋に行きました。
ふと思いついて、演奏会のように礼をしてその曲を弾きました。
その時たまたま椅子を一つピアノの前に置いていて、まるで神様がそこに座って下さっていて演奏を聴きに来て下さっているように思えました。
弾いている時、弾き終わった時はもっと幸せで、嬉しい気持ちで一杯になりました。
アンコールのつもりでもう一回演奏しようと思って、次は部屋にあった椅子を全て並べました。
その時の不思議な感覚は、本当に忘れられません。
聖なる温かさ、肉的な目で見れば私一人しかいないのに沢山の存在がそこにいらっしゃる感じがして、それを上回る神様の愛が私に寄り添って下さっている感じがあって…
弾き終わった後、涙が出るほど幸せな恵みに満たされました。
私が当初計画したかった「祝祭の日に演奏会をしたい」という願いを、神様は一番神様と愛を交わせる形で叶えて下さったことに、その時気付きました。
初めて発表会に出た子どものような演奏でしたが、今までのどんな演奏会の時よりも幸せな時間でした。
来年はもっと沢山の曲を作って演奏したい、そう思って私は練習室を後にしました。
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実はこの時に弾いた演奏を、スマホで録音していました。
翌日聞き直したらまだ出来立てホヤホヤで技術的には不安定な演奏だったので、もし何らかの形で出すとしたらこの音源は良くないだろうと思い、後日何度も練習、録音、録画を繰り返していました。
けれど、聴き比べるとやっぱり11月11日に録音したものは何か違いました…
本当に11月11日が特別な日だったのだなと実感します。
そして、神様と愛し合って生まれた音楽こそが、この世にあるどんな音楽よりも高い次元なのだと悟りました。
私はまだまだそのような次元ではありませんが、本当に強く希望を頂きました。
心から感謝します。
なので敢えてこの音源を使い、この日に撮った写真と一緒に纏めて、この日の記念の動画を作ってみました。
【ピアノソロ】祝祭の歌
もし宜しければお聴き頂けると大変嬉しいです。
神様が下さった個性才能を、ようやく神様の為に使い始められることが本当に嬉しいです!
これから、もっと天の文化・芸術を悟って、行っていけるように頑張りたいと思います。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。
次回もお会いできることを楽しみにしております。
一対一の演奏会
こんばんは、myrrhです。
証を書いたり、他の方々の証を読んだりする中で、これまでの私がどう生きてきたのか、落ち着いて考える時間を沢山頂きました。
その中でも、私の「演奏のあり方」について神様が悟らせて下さったことについて、今回は書きたいと思います。
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信仰の4本の柱の一つに、「賛美」があります。
賛美の時は賛美歌を歌ったり、感謝の祈りを捧げたりします。
けど、私自身が折角ピアノをやっているのだから、自分がピアノを人前で演奏する時は神様に捧げられるものにしたい、と思いました。
そのように考えて、これまで多くの演奏の場を踏んできました。
そうすれば自ずと、演奏も上手くいくだろうと考えていたからです。
しかし、現実はそう上手くいきませんでした。
緊張してしまったり、小さな失敗から来る精神又は肉体のバランスの崩壊から、弾いている時も辛いばかりか、弾き終わった後も「自分はだめだな」と思わざるを得ないことが多くありました。
後から自分の演奏を聴き直した時に、「なんてつまらない演奏なんだろう」と愕然としたこともあります。
こんな演奏じゃ全く上手くいっていないし、そもそも神様はおろか、人にすらまともに喜ばれるものになっていない。
その原因が何かと探った時に、その時々に色々なこと要因はあれど、結局努力不足だな、という結論で終わらせていました。
それ以上に考えられないし、またそのこと以外を考えたくない、という気持ちがあったのだと思います。
実際に、それも大きな問題の一つでした。
しかし、演奏自体は上手くいったけど、その後神様を抜きにして自分の気持ちだけが盛り上がってしまい、その日のお祈りが全然入らない、といったことも結構ありました。
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今まで私が演奏をする時、また練習をする時、大きな目標の一つとしてきたことは「人にどう伝えるか」ということでした。
伝えるものがなければ、音楽はただの音に成り下がってしまいます。
どれだけ楽曲が優れていても、やっぱり人の心を動かす力を持てません。
しかし、そうして作ってきた演奏を発表する時に、私が舞台上で考えていたことは結局、「人がどう私の演奏を受け取ってくれているか」でした。
その為に神様に祈って、「どうか守って下さい」「成功できますように」と縋っていました。
最初に、演奏を賛美=神様に対する感謝を捧げる為にしたいと、思っていたにも関わらずです。
いつの間にか演奏を捧げる対象が人になっていて、人にどう思われるかが一番の焦点になっていました。
その為に、神様に縋っていた自分に気が付きました。
つまらない演奏になる筈ですし、弾いている時に辛いと思う筈です。
聖書でも以下の聖句がありました。
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自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。
よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。
すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(マタイによる福音書6章1~6節)
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この聖句を知っていながら、私は自分がやっていたことの偽善が分かっていませんでした。
私が今もなお音楽がやれること自体、神様が与えて下さらなければできないことです。
その神様が与えて下さったものを、演奏者としての成功の為に使っていました。
本当に間違っていました。
もし、演奏する場所がどんなに小さなところでも、聴いてくれる人がどんなに少なくても、審査員だけだとしても、誰もいなくても、神様の為だけに演奏するなら全く関係ありません。
ただ神様に向かって、神様に伝えたいと思って演奏するなら、その場所がどんなホールよりも大きく素晴らしい舞台になるのだと。
このようなことを悟って臨んだ演奏会で、私は今までにない深さの「音楽への集中」を感じて弾くことが出来ました。
神様に祈るように弾くから、音楽にもより集中するしかありませんでした。
だからこそ、終わった後も力に満たされました。
また、その時は年配のお客さんが多かったのですが、心なしか始まった時よりも生き生きとして帰られていったことが印象に残りました。
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信仰を持つ前も一生懸命にピアノを弾いていましたが、今の方が本当に幸せに音楽が出来ていると実感しています。
「ピアノを弾く時は誰かの為に弾きなさい」
そう小さい時に教わって育った私は、ある時「誰か」の対象を見失って、音楽をやる意義が分からなくなりました。
その対象を「私の演奏を聴いてくれる不特定多数」に変化させてやり続けていましたが、今は「神様」の為に弾くという最も幸せな答えをはっきり与えられました。
これから、本当に神様に喜んで頂ける演奏が出来るように、本当にずっと神様の為だけに弾き続けることができるように、そして神様に使って頂ける演奏者となれるように、もっともっと実力も能力も身につけていきたいです。
そのように生きれること。
信仰を持つ前と今とのちょっとした、けれど、本当に大きく幸せな変化だな、と思います。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。
皆様に神様の恵みが満ち溢れますようにお祈りします。
思い込みを捨てる事
こんばんは、myrrhです。
神様は御言葉で、一人一人が個性才能を使って天の文化・芸術を成しなさいと仰って下さいました。
今日は、信仰を持つ前からやっていたピアノと、信仰を持ってからやり始めたカメラを行う中で分かったことを書こうと思います。
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以前書かせて頂いた通り、元々私はピアノをやっていました。
それが自分の個性才能の一つだ、と思ってその道でもがいていましたが、あくまでそれは信仰を持つ前からやっていたことです。
折角なら新しいこともやりたい!と思って、別の個性才能も発掘しようと決意しました。
しばらくの間、何をしたらいいかな…と迷っている時期がありました。
しかし、その間でさえ、無意識のうちに好きでやっていたことがあった事に気がつきました。
写真を撮ることです。
丁度私の周りには一眼レフを持っていた友達が何人かいました。
スマホで写真を撮るのとは格段に仕上がりが違うし、出来ることも非常に幅広い。
何より、カメラを構える姿にちょっとした憧れがあって、いつか自分も一眼レフを欲しいなぁ…と思っていました。
その為も今はスマホで練習をしよう…と、思いついては写真を撮っていたのです。
これだ!と思いました。
そして、事あるごとに近くの公園に出かけて木やら花やらを撮ってみたり、演奏会を聴きに行った時は出来るだけ率先して写真を撮る係を引き受けたりしてみました。
カフェのランチや、何処かに遊びに出かけた時にも、どんな写真が撮れるかわくわくしながらスマホを振り回していました。
何気なしにやっていた時よりも、上手くなりたいと意識をしながら撮ることは楽しく、少しずつ良い写真だと思えるものが撮れるようになることを幸せに思いました。
そして、今年の8月の後半頃、遂に一眼レフを買うことが出来ました。
安く買えるように、中古でも良いものを神様が与えて下さいました。
早速私は、そのカメラを使って思いついたものは次々と撮るようになりました。
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スマホカメラと違い、一眼レフを使うにはある程度勉強と慣れが必要でした。
取り扱い説明書を読みつつ、とりあえず弄って手に馴染ませるところから入りました。
実際に撮る機会を増やして、ネットで自分の撮りたいイメージの写真を撮る方法を探してみたり、InstagramやTwitterで写真を載せている人達のギャラリーを見て研究したりしました。
またレタッチ(編集)が出来なければ、カメラだけで綺麗な写真を作るのには限界があることもすぐに分かってきました。
元々機械に関しては不慣れな私でしたが、「初めてやる」という緊張感からか不思議と集中が出来て、少しずつ飲み込みは早くなりました。
ところで、同じく個性才能としてやっていたピアノのことです。
ピアノは私の人生の大部分を占めていたので、世の中で生きていた時の考えが非常に色濃く付いていました。
なので、信仰生活の中で自分の考えを捨てて脳の次元を上げようとするにつれ、音の出し方から、練習の仕方、演奏をする時の感覚まで、どんどん見直すところが出てきました。
しかし、体に染み込ませてきたものを変えていくのは思ったよりも難しく、曲を仕上げることよりも、自分の演奏を作り変えていく作業の方が難航しました。
一度持っているものを崩して作り変えたつもりが、気が付いたらまた以前の癖や感覚が戻ってしまっていることもよくありました。
変われた!と思って油断してしまい、怠惰になってしまうことも沢山ありました。
それにいかに早く気付いて、認めて、練習するかが、非常に大きなポイントになっていました。
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信仰生活の中で別々の文化・芸術をやる中で、この世の中のありとあらゆる物事は根本で繋がっていることを実感するようになりました。
もし私がピアノだけをやっていたとしたら、私の古い考えを解消するのがより難しくなり、信仰生活ももっと頑ななものになっていたと思います。
また、カメラを徐々に習得しつつあるのは、ピアノをやることで身についた脳の思考回路が少しでも役に立っているのを感じます。
また、この二つの個性才能だけではなく、運動をしたり、料理をしたり、rapt理論を学ぶことだったり、文章を書くことだったり、バイトの中での所作だったり、一人の人間が行う様々なことが連鎖し合って成長していけることがわかりました。
そして、それら全てを強力に繋いでくれたのは、信仰生活の中で頂いた御言葉であり、聖書の教えであると実感しました。
寧ろ、その信仰の土台無しには私は何も出来なかったと思います。
信仰を持っていない時の私は、ちょっとだけピアノが弾ける(それも大して目立たない存在でした)だけで他に何の取り柄の無い人間でした。
世の中には、ピアノも出来る、他の楽器も、勉強も、スポーツも…と「天が二物を与えた」と称される天才がたくさんいて、私は彼らのことを羨望と嫉妬の眼差しで見ていただけでした。
でも、御言葉から真実と真理を学んでいくうちに、誰でもそうなることが可能なのかもしれない、と思えるようになりました。
頭の中に正しい知識が入っていれば入っているほど、正しく一つ一つの物事に当たっていくことができるからです。実際に、頭がすっきりとしている時ほど新しい発見があり、何が違っていたかが分かりやすくなります。
神様は、人間一人一人に他の誰にも出来ない個性と才能があると教えて下さいました。
そして、何か一つでも掴んでしまえば、別のことをする時に大きな力になるとも。
RAPT有料記事59 (2016年4月16日)
この世の誰もが「個性」の王様だ。
脳は、「分かったこと」の蓄積で成長できるし、その蓄積がある一定の量を超えると、出来ることが増えていくのだと分かりました。
何かを行うのは「私」という人間なので、御言葉や聖書で脳の中にあった間違った考え、自分の思い込みを取って、新しい知識と知恵を得ることで、それらをありとあらゆる物事を成す為に使えるのだ、と気付くことが出来ました。
RAPT有料記事414(2019年10月21日)
人は悟りを積み重ねることで神のようになっていくし、神のようになれば自らの行いで自分に恵みを与えることができるので、何か特別なことが起きなくても毎日が幸せだ。
考えが変われば行いが変わりますし、行いが良い方向に変われば、結果も必ず良くなります。
そして、その成長できるスピードは、いかに自分が握りしめていた「過去の考え方=思い込み」を早く捨てることが出来るかにかかっているのだ、と分かりました。
何の先入観も知識も無いままやったカメラは、自分が「分からない」ことが前提なので、直ぐに次への改善点を見つけて、一回一回を切り替えて行うことができました。
しかし、ピアノは「今までやってきた」ことの思い込みが染み付いてしまっているので、成長していくことに対して壁に当たりやすいと感じましたし、気付けば自分の考えに陥りやすい傾向にありました。
思い込みを捨ててこそ、間違いに気付けるし、新しいことも吸収できました。
そうやって個性才能を伸ばすことで、より一層神様に「もっと出来るようにならせてください」と強く祈らなければいけないと悟れました。
信仰生活も日常生活も、相互関係であり、循環関係にあり、どちらの成長にも自分の考え・思い込みはその妨げになりました。
自分の中には、まだまだ過去の考え・思い込みがあると実感しています。これからもそれらを徹底的に取り除けるように、努力していきたいと思います。
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様々な物事にぶつかり、その度に悔い改めを行う中で、今までの自分が考えていなかった形で、自分が本当にやりたかった事が進み始めました。
またその中で、自分が遅く、努力の足りない者である事がどんどんと明らかになりました。
神様に与えて頂いた希望を必ず形にする為に、これからももがいていきます。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。
また次回にお会い出来ますことを楽しみにしています。
「分からない」を認める大切さ
こんにちは、myrrhです。
今日は「分からない」ことを認めることが、自分にとってどれほど大切なことだったのかを書こうと思います。
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私は幼い頃から、よく知ったふりをすることの多い人間でした。
みんなが見ていたドラマや漫画、最近流行りのアーティスト、芸能人、俳優などに殆ど興味が無く、学校の友達との会話についていけないことが多々ありました。なので、会話を振られた時に何といえば良いか分からず、とりあえず分からなくても何となく知っているように装っておこう、と考えて振舞ってきました。
知らないこと、分からないことは恥ずかしいことだと思っていました。そして、恥ずかしいことは隠さないといけない、とも思っていたと思います。
その体質は次第に自分自身に身についていき、勉強をする中、またピアノの練習、またレッスンを受けたりする中でも大きく響くことになりました。
勉強は一生懸命やろうとしていましたが、きちんと理解のできていない数学の公式や英語単語、社会や理科の用語等々、それらはテストが終了したらすぐに頭から飛んでいきました。
感覚で解いてきたような問題は、暫く経った後にもう一度やろうとしたら全く出来なくなっていました。
ピアノも、レッスンで習ったことがなかなか理解できない時、とにかく無理やり自分の体にその奏法や技法を覚えさることに集中することで、自分自身の表現ではないものを演奏したりするようになりました。
そして、分かっていないことが原因で失敗すると、自分の努力が足りないのだと思って、余計に意地になって上っ面の知識で無駄な方向に突き進むことが非常に多かったです。
その時の私は、本当に効果があるのかどうかも分からない辛い努力をするよりも、自分が何も分かっていないことに気付くこと、また分からないものを分かるようにしようとする努力の方が苦しくて大変に思えていたのだと思います。
つまり、「分からない自分」を認めたくないプライドが、私の成長を邪魔していました。
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御言葉を読んで、分からないことは悪いことでないと分かりました。
何故なら、一つの記事を読んだだけでも物の見方・考え方に大きな変化が現れるのに、そのような記事をraptさんは次々と更新し、その度に新たな発見や悟りを下さるからです。
何も自分は知らないと、むしろ知っていると思うことは高慢であると、分かるようになりました。
高慢もプライドも、大きな罪です。
RAPT有料記事212(2017年10月2日)祈りが叶えられる時とは、どのような時なのか。
人間の欲求の中には「知識欲」がありますが、「分からない」ことは「知りたい」との欲求に繋がります。
そして人間の欲求の一つである以上、食欲と同じように満たさないと人間は人間として生きていけません。
例えばこの世の中のカラクリを、rapt理論を知らずに生きていた時のように、分からないことに囲まれて生きることは辛いことです。
逆に、分からないことが分かった時の「知る喜び」は計り知れません。
しかし、高慢やプライドは自分に分からないことがあることを有耶無耶にし、「知らなくてもいい」という気持ちにさせてしまいます。
知らなくても幸せに生きていける、と錯覚してしまいます。
つまり、高慢・プライドは、本来人間が持つ欲求を阻害するものではないかと悟りました。
カルト宗教は辛いことや意味が分からないことがある度に「考えるな」と教えているそうですが、それがどれほど恐ろしいことでしょうか。
神様はありとあらゆる真実・真理を御言葉を通じて教えてくださり、何か分からないことがあれば、必ず何らか形を使って教えてくださいます。
明け方の祈りの中で祈り求めていたことに対して、その日の朝会の御言葉の中で答えを与えて下さったことも、最早数え切れないほどあります。
分からないと心から認めることは、神様の前で本当に謙虚になれることなのだ、と気付きました。
そうしてこそ、初めて神様は本当に「分かった!」(=悟った)という感覚と共に答えを与えて下さり、私のことを助けて下さるということも、沢山経験しました。
今でも、気がついたら盲目的に自分の考えに頼って、道を間違えてしまうことが多くあります。
必ずその度に悔い改め、まっすぐに主の導いて下さる命の道を進めるように、これからも努力したいと思います。
最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。
また次回もお会い出来ることを楽しみにしています。
私と信仰の出会い
はじめまして、myrrhと申します。
私はraptブログに出会い、信仰を持った一人です。
私の体験したことがこの世の中の誰か一人にでも良いものとして届けば、と思い、綴らせて頂きます。
長くなりますが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。
皆様に神様の祝福がありますように。
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私はピアノをやっています。
母がピアノの先生だったこともあり、気がついたら音楽に触れている生活を送っていました。
あまり自分の人生について考えたことがなく、親やピアノの先生、また学校から提示される道を選んで生きてきました。
多少の疑問は抱きつつも、それ以外の道を見出すことが考えられなかったからです。
なので、演奏家になったり、自分の学んで来たことを教えたりといった職業的な夢は持っていましたが、自分自身が音楽をやる意義についての明確な答えを持っておらず、常に心のどこかでそのアイデンティティを求めていました。
随分と長い間「人から認められたい」との思いに苦しみました。
今でも、その思いが顔を出すことがあります。
競争社会だった音高、音大、また完全に順位をつける為の存在のコンクールにて、本当はいけないと思いつつも、いつも周囲の人間に対して注意を張り巡らせて生きていました。
自分の音楽に集中しなければいけない時に他人のことを気にする自分を、何とか排除しようと必死でした。
けれど、少しいい結果が出たり、いい演奏ができたりすれば浮かれてしまい、逆に悪い結果や良くない演奏になってしまった時は、言い知れないほど落ち込んだりして、結局「他人からの評価」に一喜一憂する生き方をしていました。
私がピアノと向き合うことに対して初めて大きく壁に当たったのは、大学4年生になった時でした。
私は大学院に進むことを希望していたのですが、4月頃から手の不調を感じ、数週間後には完全に右手が使い物にならなくなったのです。
めきめきと実力を発揮していく同級生達を横目に、私は「ピアノを弾くな」との先生の忠言に従って治療を開始しました。
ほぼ自分の行先が絶望的に思えました。
ですが、一度立ち止まることで、これまでの自分自身のピアノの弾き方が無茶な体の使い方であったことに気付きました。また「認められたい」というエゴのままに重ねてきた努力が、自分の目指してきた本来の音楽のあり方からかけ離れていたことに、じわじわと思い当たるようになりました。
ピアノが弾けることは当たり前でない、そんな単純なこともこれまでの私は分かっておらず、ただ盲目にピアノを弾き続けていたことに気付きました。
自分は間違っていた。
だから、ピアノが弾けなくなったんだ。
一時はもうこの道を諦めようとまで思っていましたが、このことに気付いた時、腕の良い整体師の先生に巡り会い、私の手は完治に向かいました。
今となっては、神様が働いて下さったのだとしか思えません。
しかし、当時の私はこの奇跡に驚嘆したものの、私の進路は空白のままであることに焦りました。
どうしよう、と思っている時に導かれたのが、今いる大学院でした。
私は浪人を決意しました。
ここでピアノを学ぶことを諦めたくない、まだ自分の中で答えが出ていない、という気持ちに、家族が理解を示してくれました。
また、私は丁度手を壊す前辺りから陰謀論に出会って、この世の中がおかしいと本気で思うようになりました。
そして、一年間の浪人期間中にラプト理論に出会い、世の中に対して抱いてきた疑問をことごとく解消して下さったことに、大きな衝撃を受けました。
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大学院に入学した私は、「新しくなるんだ」という思いで日々練習に励むことになりました。
しかし、人数も多くない環境、また寮生活ということもあり人との距離感も難しく、また友人同士の板挟みに合ったりと、人間関係に非常に苦しむことになりました。
為すべき課題の多さとレベルの高さ、比例する練習量に加えた日常の問題に私は次第に疲れ切っていきました。
この学校で生きていくには、自分の力では無理だと思いました。
その時に、ふとraptブログの有料記事のことを思い出しました。
私はかつて自己啓発やスピリチュアル系などを読んでいましたが、決まってそれらの語ることに辟易して離れてきた人間でした。
けれど、イルミナティの秘密を暴いて(しかも自己啓発が悪魔崇拝であったことも暴かれた)、私のかねてからの世の中への疑問を解消して下さったこの方が言われていることなら、読んでみたい…
そう思って、購入を決めました。
そこで語られていた、人生の生き方と聖書について。
私の通っていた大学はキリスト教系だったのですが、学校の講義では話半分しか聞いていなかった聖書が、こんなにも「深い」書物であったことに、わくわくとした気持ちが湧いてきました。
更にラプトさんが普段どのようなことを祈っているのか、その言葉を読んだ時に「こんなにも本気で世界を変えようとしておられる方が、この世におられた…」と、心を正された気持ちになりました。
私は「祈り」について興味を持ち、はっきりと信仰は持っていないながらも、寝る前に少しだけ祈ってみることにしました。
大きなきっかけとして、その時にたまたま緊急で頼まれていたリサイタルの伴奏者の仕事内容が非常に重く、またその付近に様々な行事があった為、自分の手では到底このスケジュールを乗り越えられないと途方に暮れていたことがありました。
今のままでは無理だけど、祈れば何とかなるかもしれない。
半分ダメ元だったと思います。それでもやってみました。
しかし、信仰も持っていない私の小さな祈りを、神様は叶えて下さいました。
当時の私は必死すぎてきちんと意識はしていませんでしたが、有益なことを次々と思いつくようになりました。
まず、練習時間と肉体の休養のバランスを取らなければリサイタルの日まで自分が持たないことに気付き、効率よく練習するにはどうしたら良いかが次々と分かるようになりました。
また、一回一回の合わせの中でどのような点を汲み取っていけば良いかも、自然と察知していくようになりました。
練習で疲れ切った体の癒し方も、悟らせて下さいました。
そして、自分自身の反省点は多くありましたが、このリサイタルを乗り越えて得た成功と経験は、初めて「自分の限界を突破した」とはっきり感じるものになりました。
本当にひとときの出来事でしたが、「祈りには本当に力がある」ということを、体感した瞬間でした。
そして、少し落ち着いてから私はこう考えるようになりました。
「祈り」を教えてくださったこの方は、本当に神様の力を受けておられるに違いない…!
自分の生きていた世界に「神様」の存在が現れた出来事でした。
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このリサイタルの後、別の伴奏の仕事の為に地元に帰ってきている時。
私は急に、最近の有料記事を読まなければいけないという思いに囚われて、その時の最新のものであった2017年10月の有料記事を読み始めました。
その中で、私が今まで歩んできた道に対して、答えを与えてくださった記事がありました。
VOL.216 神様に頼らない者は一しか与えられず、神様に頼る者は無限に与えられる。
この記事を読んだ時、手の故障を経験した時に自分の間違いに気付き、道を間違えずに済んだことが、罪の悔い改めと許しだったことにはっきりと気付きました。
そして、この世の中の真実を本気で探していたから、ラプト理論を通して真実・真理を与えられたのだ、ということもはっきりと確信しました。
そして、自分が今ピアノを弾けていられることも、
手の故障によって立ち止まれたことも、
大学院に来たことで自分の無力さに気付いて本気で救いを求めたことも、
祈ったら助けてもらえたことも、
音楽を学ぶ環境を与えられ続けてきたことも、
それを許してくれた両親の元に生きていることも、
今生きていることも、
何もかも全て、神様が私を導いてきて下さり、与えて下さったものなのだと分かりました。
神様が、自分の人生の中にずっといて下さったのだ、と悟りました。
あまりにも当たり前のように側にあった事実に、深い感謝と喜びが溢れました。
こんなにすごいことがあるのだろうかと、感激しました。
この日から、私の信仰生活が始まりました。
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証を書こうとしてから、随分と時間がかかってしまいました。
自分の歩いてきた道を文章にするにあたって多くの気付きを頂き、更に沢山の罪にも気付きました。
またこの時、間違いも多く犯しました。
自分の中にはまだまだ罪があるし、弱さも、高慢も、慢心も、プライドも、いつの間にかすぐに現れます。
これらを心の中に持っている時は本当に苦しく、すぐに道を見失ってしまいます。
また自分の行いに熱中することで、気付けば自分自身の抱く考えや思いで頭が一杯になってしまい、神様を遠く感じることも多くありました。
あまりにも小さくて惨めな私を、神様はそれでも救ってくださり、常に愛で導いてくださいます。
許されるなら神様の為に、与えられた音楽を使って生きていきたい。
一生、神様に恩返しする生き方がしたい。
そう思った時に、私がこれまで失っていた音楽をやる意義や、これからの夢すらも神様は与えてくださいました。
神様に、神様に出会わせて下さったraptさんに、本当に感謝しています。
拙い文章ですが、最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆様に恵みが満ち溢れますことをお祈り致します。